エロゲ、ノベルゲ英語学習最強ツール仮説

エロゲ、ノベルゲ好きオタクの語学実験記

できるだけ調べずに読む~①

本ブログでも度々触れており、多読における重要な考え方の一つであるこの「できるだけ調べずに読む」ということについて、ここで改めて私見を述べてみたいと思います。
 
今回は主にできるだけ調べずに読むということがなぜ重要かについて語らせていただきます。具体的にどうやったらできるだけ調べず読んでいけるのか、そのコツやヒントについてもある程度言及していますが、これらはまた別の記事で改めて取り上げてみたいと考えています。
 
できるだけ調べずに読むことを推奨するとは言っても、何らかの形での語彙増強は必須だというのが私の考えです。その上で、できるだけ調べずに読みまくることが超重要だと私は現状、確信しています。なぜなら語学とは言語の習得、つまりその言語のゲシュタルトを作ることを目指す活動だからです。
 
私たちが何かを調べる時、それはパーツを調べています。単語かもしれないし、フレーズかもしれません。イディオムかもしれないし、何らかのパターン表現かもしれません。文法かもしれません。
しかしいずれにしても共通して言えることは、その調べる対象はどれも、文全体にとっての、あるいは文章全体にとっての「パーツ」であるという点です。もっと巨視的に言うとその言語、つまり英語にとってのパーツであると言えます。
しかしながら言語というのはゲシュタルトであって決してパーツの総和ではないのです。認知科学的にいうところの「スキーマ」の問題であり、語学において最も重要な概念だと言えます。詳しくお知りになりたい方は岩波新書から出ている「英語独習法」(今井むつみ著)という本の一読をおすすめします。ゲシュタルトという表現を使用してこの問題に言及している一般書ならば「英語は右脳で学べ」(苫米地 英人著)という本をおすすめします
 
言語で求められることは、今持っている手持ちの言語パーツと自身の人生経験、知識、それに文脈や背景、相手の表情、感情、感覚などの非言語情報を総動員して意味にアクセスすることです。
もちろんパーツは多ければ多い程良いです。…ですがここに罠があります。私たちが問われているのはあくまで理解なのです。
 
ここで究極の質問です。
 
「理解とは何でしょうか」
 
この問いは決して抽象的な言葉の遊びではありません。
この問いにどれだけしっかり答えられるかが語学を成功させる上で重要だと私は考えます。
 
理解には対象が必要です。
あなたは何を理解したいでしょうか?
 
もちろん書いてあること、相手が言っていることでしょう。
そしてそれら書いてあることや語られることはパーツから成っています。
 
確かに文全体を先に見た上で分析すれば、まるで文全体はパーツの総和であるかのように見えます。それぞれの単語には様々な意味がありますが、その中から最適な意味を選び出し、その文に存在する文法規則を見出した上でそこに個々の単語、フレーズ、定型表現の最適な意味を当てはめれば全体の意味が完成するかのように見えます。
しかしそれは全体を先に見て分析した時に生じる結果論であり、リアルタイムで言語を使う側(発信者及び読み手)に生じる過程ではないのです。
パーツ単位で「これはどういう意味か」、「この場合どういう意味か」、「この文にはどのような文法規則があるか」と考えていては実践的な言語運用能力は得られません。
 
調べるという行為が惰性になってしまった場合、もっとも危険なのはパーツが分からなければ意味が理解できないという思い込みを無意識に作り上げてしまうことです。
実際には文中にわからない単語があっても大きな意味は理解できることが少なくないことは、日本語の場合を考えても明らかでしょう。
もちろん意味を理解するには手持ちの言語パーツが少なすぎるという場合だってたくさんあります。
しかしその場合でさえ、その言語のゲシュタルト(あるいはスキーマ)にアクセスしようとし続ける態度にまず大きな意義があることを銘記しておく必要があります。(そして理想的には、英語を見たときに英語のゲシュタルトないしスキーマが無意識に働く状態になることを目指します)
その上でさすがにちょっと調べないとわからないな、理解度低すぎてつらいな、となった場合調べたり(あるいは読むものを変えたり)すればいいのです。そもそも調べるのがだめということでは全くありませんから。
 
ゲシュタルト(あるいはスキーマ)に意識を合わせた状態で、言語(音、綴り)を浴びることで、脳にとって理解に都合のいい言語的クラスター(群、集まり)が形成されていくのです。パターンが形成されてくると言ってもいいでしょう。パーツがこのような単位のものになってようやく実際の言語運用能力への寄与が起こるのです。
 
そこで結論ですが、私たちはパーツではなくてゲシュタルトないしスキーマの形成、育成、あるいは母国語のゲシュタルトスキーマとのズレへの気づきにフォーカスすべきなのです。理解対象をパーツではなくてゲシュタルトに向ける必要があります。
 
 
いくつかポイントがあります。
 
 
・言語パーツの外側にある非言語的要素、つまり背景、文脈、感情、感覚、表情、(文法と言う意味ではなく一般として働いている)論理などを十分に活用しようとすること。つまりそれら非言語的情報を自分にとって既知の英語パーツとダイレクトに接続しようとし続けること。これはいわゆる日本語に翻訳すべきではないというよくある主張に通じるものです。
 
ゲシュタルトにも階層があります。この場合抽象度と言い換えてもいいかもしれません。コンテンツ全体かもしれませんし、あるシーンや章、段落全体かもしれません。一文かもしれませんし、一文中のあるまとまりかもしれませんが、要するにできる限り大きく捉えようとし続けることが大事だということです。習熟する程により大きなゲシュタルトを扱えるようになり、それが理解力、理解スピードに繋がります。
 
・上記と関連しますが、時々ゲシュタルトをパーツ化するということも重要です。理解しようとする時パーツにフォーカスすべきでないと言いましたが、それはゲシュタルトを経由しないパーツのことです。ゲシュタルトを経由したパーツあるいはパーツ化したゲシュタルトは、扱える道具として心の中に残ります。つまり実際に使えるようになる(読む、書く、話す、聞く)ということです。そしてこのゲシュタルトのパーツ化のためにも、なんらかの形での語彙増強が重要になります。語彙増強つまり基本的には単語を覚えるという作業ですが、これは完全にパーツのためのアプローチです。単語というパーツは基本的に音と綴りと大まかな意味の三要素しかありません。そして意味はゲシュタルトの観点なしに習得はあり得ません。少なくとも効率が悪いです。ここでの最大の問題は音と綴りという最も無意味的要素への対策です。そしてその対策は非常な荒業しかあり得ず、理屈抜きの反復によって慣らす以外にありません(記憶術などもありますが過度な期待は禁物です)。ですからしばしば語学においては習うより慣れろ的な声が強く上がり、一定の説得力を持つわけです。語学には「理(解)」的な要素、つまりゲシュタルトに関わる要素と機械的反復的要素の二要素がありうまくこれらをバランスさせなければならないということです。
こうした事情を踏まえた上で、計画的に反復、復習を利用して知っている単語を増やせば(たとえ意味がうろ覚えのような状態だったとしても)、あとは多読の中でゲシュタルトにアクセスしようとし続ける過程で、またゲシュタルトをパーツ化していこうとする過程で、学習した単語が自動的に、潜在意識的に取り込まれていきます。そして個々人の脳の都合で、ある閾値に達したものから意識的に使えるレベルになっていきます。
 
 
というのが私なりの仮説です。
書きやすいので断定調で書いていますが、あくまで仮説であることはご了承くださいませ。またこの記事は後年加筆したため、ゲシュタルトスキーマという用語が若干混交気味になってしまっている点はご容赦ください。ただ両用語が意図するエッセンスは同じです。
 
仮説とはいえ自身の語学体験、様々な第二言語学習理論、語学成功者がシェアするハウツー、また語学以前にそもそも人は言葉をどう習得するかという認知科学的知見を吟味した内容ですので、なんらかの形で参考にしていただける内容にはなっているのではないかと自負しております。